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コロナの哲学

コロナと人類の戦いは果てしないのか。今日もコロナ感染者が増え、いよいよ東京だけで一万人を超えるところまで来ました。その一方で人類は団結しようと言う気はないようです。マスクをするとかしないとか、ワクチンを射つとか射たないとか、これは個人個人の性格とか信条とか感情とかではなく、はっきり言って哲学の問題でしょう。コロナと言う敵に対しては医学、医療技術、薬学等いわゆる科学が主たる分野ですが、人間はこれも哲学なのです。これは本来哲学者が考察するべきですし、巷の私が論理を語るつもりもありませんが、是非、哲学者の先生方も考察してください、またはもう考察されているかもしれませんが。いわゆる「コロナ」に対し、思考は「感染している」「感染していない」「感染しているかもしれない」「無関心」というように大まかに4つの思考形態があると考えられます。これもさらにいろいろな思考に分解することも可能ですが、とりあえず、4つです。この中から、いわゆるワクチンを拒否する人々、マスクを拒絶する人々がでるわけです。ワクチンに副作用がある人、注射が嫌いな人それは理解できますが、生きるか死ぬかになれば多くの人がワクチンはやもえないと思うでしょう、何万人も死ねば自分の危険があると思いまうからね、しかし、自分は死なない、感染しても治ると考えている人はこういう判断をします。これもその人の哲学でしょう。
つまりは「無関心」の一種がワクチン拒否、マスク拒否になる気がします。無関心がなぜ哲学であり、かつ、それが拒否するのかの関連性が不明でしょうが、実際には拒否するとかよりも、一切全部無視するひとも同類です。そういう方々にやれマスクをしろとか、ワクチンを射てと言っても立て板に水か、さらには反発して反ワクチンの行動をするでしょう、これこそ無関心の極みです。もうすこし底を掘り下げないと哲学とは言えないのですが、この眼にみえないダークマターのような存在に人類は振り回されてきた気もします。つまりはコロナ本体よりも、科学を無視した迷信を信じることで命を失うとか、そしてそれも人類であり哲学なのです。ありとあらゆる森羅万象から、人間は哲学として思考能力を高めて進化してきたとも言えます、そういう意味で「無関心」も重要な哲学なのです。
※このコラムは「哲学」としては考査中です、今後違う論説になるかもしれませんのでご了承ください。

内山家政婦看護師紹介所

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